
希少樹種ハナノキの保全
鈴木和次郎 すずきわじろう (森林総合研究所)
*写真のナンバーは写真の上にカーソルを置くとわかります。
奥会津地方でハナノキといえば、「イタヤカエデ」を指すそうですが、今回取り上げるハナノキは、分布が中部地方の一部に限られるカエデの仲間の「ハナノキ」別名「花カエデ」と呼ばれる樹木である。この木は、分布も限られ、個体数も少ないことから、希少樹種の一つとして数えられ、絶滅の危険性が高いところから、絶滅危惧種U類の指定も受けている。本文の内容は、2月1日に只見において行った講演のうち、ハナノキに関する部分のみを書き記したもので、奥会津地方の希少な動植物の保護・保全に、何らかの形で役に立てばと考え、公表することとしました。
ハナノキの分布と生態
ハナノキ(Acer pycnanthum)はカエデ科カエデ属に属するカエデの仲間で、別名ハナカエデと呼ばれ、胸高直径は1m、樹高も25mに達する落葉性高木である(写真1)。日本の固有種であるが、その分布は限定的で、長野県と岐阜県の県境にある恵那山(2191m)を中心とする半径50kmの範囲内にほぼ分布する。例外的に、そこから150kmほど離れた長野県大町市の居谷里湿原に小集団(成熟個体が僅か20個体にも満たない)が分布するのみである(図1)。高標高では、高層湿原に出現するが、低標高では、オオミズゴケなどミズゴケ類が成育する湧水や小沢の谷底周辺など湿性な立地に生育する。他にシデコブシ(写真2)やヒトツバタゴ(ナンジャモンジャノキ)、ミカワバイケイソウなど、この地域に固有な植物種が同所的に生育することから、東海丘陵要素の一つとされている。

ハナノキの名の由来は諸説あるが、花をつけるものの、実がならないと言うことから来たとの説もある。これは、ハナノキが雌雄異株で、雄木については、当てはまる。しかし、おそらくは、早春の花の艶やかさから来ているものと思われる。しかし、ハナノキの雄花、雌花とも花弁は退化し、目立たない。それに代わって、ガク片、花糸が深い赤色を呈するため、早春に冬枯れの中で、花が目立つことになる(写真3)。ハナノキは、また、新葉が赤いため、展葉時期も、赤く染まり、さらに晩秋の落葉期にも鮮やかに紅葉する(写真4)。ハナノキは年に3回楽しめるといわれる所以である。

ハナノキは、カエデの仲間の中では少し変わった生態を示す。一般に温帯地域に分布するカエデの仲間は、春先に開花し、その後、ゆっくりと果実が成長し、秋に種子が完全成熟し、種子散布が行われる。しかし、ハナノキは開花後、急速に種子が成熟し、初夏には種子散布が行われる。こうしたハナノキは、ハナノキ節として、他のカエデ類とは区別されるが、実のところハナノキ節に属するカエデは、世界中に3種類しか存在しない。ハナノキは、アジア地域における唯一のもので、他の2種は北米大陸の中西部から東海岸にかけて分布する。すなわち、アメリカハナノキ(写真5:Red
maple:A. rubrum)とギンカエデ(写真6:Silver
maple: A. saccharinum)である。しかし、この2種は、日本のハナノキとは異なり、希少樹種とか、絶滅危惧種といったものではなく、北米大陸大西洋側に広く分布し、極めて一般的な樹種である。中でも、アメリカハナノキは、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の開拓時代に、その分布域を急速に拡大したと言われている。アメリカハナノキと日本のハナノキは、その形態が非常に似ているが、日本のハナノキが完全な雌雄異株(雄木と雌木に分かれる)であるのに対し、アメリカハナノキは、雌雄雑居、すなわち枝により雌花をつけたり、雄花をつけたりするといった違いが見られる。現在は、全世界に3種しか存在しないハナノキ節であるが、第三紀には北半球の温帯地域に広く分布していたことが、化石の分布から明らかにされている。日本のハナノキは、その時代に遺存的な樹種と言うことができる。
 
写真1:大明神のハナノキ(長野県飯田市)
写真2:東海丘陵要素の一つシデコブシ、ハナノキと同所的に分布する
写真3:ハナノキの開花(雌花)
写真4:ハナノキの紅葉
写真5:丘陵地に成立するアメリカハナノキの林分(米国ウイシコンシン州)
写真6:大規模河川の氾濫原に成立するギンカエデの林分(米国ウイシコンシン州)
ハナノキの博物史
ハナノキが日本人に初めて学問的に認識され、記述されたのは、いつのことだったのあろうか? 日本における博物学、植物学の始まりは、大陸から本草学が紹介され、翻訳された江戸時代初期にさかのぼる。「本草学」とは、有用な動植物、鉱物を観察し、記録する学問で、いわば博物学の走りといったものである。日本における初の本草学の本は、「養生訓」で有名な貝原益軒の記した「大和本草」(1709)であるが、その巻ノ十二「木之下 花木、雑」にハナノキは登場する(ただし図はなし)。「花カエデ 葉は椋ノキ又ハ楓葉ニ少似タリ花ハ機樹ノ花ニヨク似タリ」と。楓はカエデではなく、フウノキを示し、機樹はカエデを意味する。この時代にすでにハナノキが日本を代表する樹木として記述されているのは大変興味深い。さらに時代が下って幕末、本草学者の飯沼慾斎は「草木図説」木部で「花の木を記載し、東濃信州に自生あり」とし、伊藤圭介は、彼の著書「日本産物誌近江部」(1873)で「濃信等の諸山中に産す」とハナノキについて言及している。明治時代となって、日本の植物学が発達する中、伊藤圭介は、ハナノキの標本を
K.Koch 氏に送り、Acer pycnanthum の命名を得た。しかし、この段階でも、ハナノキの天然分布が確認されておらず、多くの植物学者は、ハナノキは外国から持ち込まれた移入種ではないかと疑った。そんな中、牧野富太郎は、ハナノキをアメリカハナノキ(Acer
rubrum)と同一種である断じた(牧野は、その後、アメリカハナノキの変種とし、学会もこれを支持した)。そんな中、後藤定次郎氏が岐阜県中津川の坂本(写真7)でハナノキの自生地を発見、小泉源一郎京都大学教授が学会発表(植物学雑誌、1912)をするに及んで、ハナノキが日本固有の樹種であることが確認された。
この発見は、北米と極東アジアの植物要素の類似性(いわゆる第三紀周北極要素)を論じたアメリカの植物学者
Gray 氏の説を裏付けることとなり、注目される発見となった。その後も、各地でハナノキの自生が確認され、その多くは国あるいは県の天然記念物の指定を受けるに至っている。面白いことに、この坂本でのハナノキ自生地発見からさして時間が経っていない1914年に、アメリカの写真家
Henry Wilson がハナノキの自生地の写真を撮影、現在、その写真はハーバード大学図書館に所蔵されている。ところが大変残念なことに、その撮影場所が明らかではない。このほか、天然分布ではないが、滋賀県の南、北花沢のハナノキ、あるいは日本で最大と言われる土岐市白山神社のハナノキなどが国の天然記念物に指定されている。また、ハナノキは、恵那山を中心とする岐阜、長野、愛知の一部での分布が確認されていたが、1963年に、この地域とは遠くはなれた長野県大町市の居谷里湿原で、新たな自生地が確認された(写真8)。
写真7:日本ではじめて自生が確認された岐阜県中津川市の坂本のハナノキ林
写真8:ハナノキの隔離集団が見つかった長野県大町市の居谷里湿原
ハナノキの民俗学
国の天然記念物である滋賀県湖東町の北花沢、南花沢地区にはそれぞれハナノキがあり、聖徳太子お手植えの伝説がある。百済寺造営の際、立ち寄った聖徳太子が「仏教が繁栄してゆくならば、この木も栄え花をつけるであろう」と自らの箸をそれぞれの村に1本づつ挿し、これがハナノキとなったという話である(「淡海木間桜」・1792)。しかし、実際のハナノキは、それほどの老木ではない(写真9)。また、このハナノキをめぐっては、江戸時代に事件が発生している。時の彦根藩主、井伊直中は、天寧寺建立にあたりその本尊を新彫するために、太子お手植えの霊験あらたかなハナノキを伐採せよと北花沢に求め、村人は祟りを恐れて、拒否し問題となった。この時、住民が大風によって折れたハナノキの太枝を差出し、これを本尊(聖観世音菩薩)の作成に使うことで決着したという。これが現在に伝わるハナノキ観音の由来である。北花沢のハナノキから南に数キロ離れた南花沢にも聖徳太子お手植えの伝承があるハナノキの古木がある。国の天然記念の指定を受けたこのハナノキは八幡神社の境内にあって、胸高直径が155cmもある大木である(写真10)。花沢の2本のハナノキはともに雄木で、種子をつけることはない。しかし、元禄年間(1688−1704)にハナノキが1株発見されている。すなわち、誰かが苗木を持ち込み植えたものと考えられる。この地域におけるハナノキの自生は疑問視されており、また、この北花沢、南花沢が中仙道から連なる東海道の街道筋にあることから、岐阜、長野から珍しいハナノキが持ち込まれたものと思われる。現在は、両地区とのお手植え以外に、ハナノキの植栽が行われており、早晩、種子が形成される可能性が高まっている。

井伊家とハナノキにまつわる因縁話は別にもある。時は南北朝時代、南朝の後醍醐天皇は、その親王たちを地方豪族の下に送り北朝勢力に対抗させた。後醍醐天皇の皇子、宗良親王は、信州国大河原(現、長野県大鹿村)に拠点を置き、北朝側と対峙していた。その宗良親王の子とされるのが尹良(よしゆき)親王である。尹良親王もまた、南朝方の地方豪族と兵を挙げるが、悲劇的な結末に終わる。その最期は、江戸時代に記された太平記外伝ともいえる「浪合記」に詳しいが、言い伝えのみが残され、尹良親王が実在の人物かどうかについては定かではない。この尹良親王なる人物に関わるハナノキ伝説が、その伝承の舞台となった愛知県滝根村の「御在平」にある。尹良親王がこの地に滞在した折、食事に使用済みの箸を地に挿し、根付いたものがハナノキ(スオウノキ)になったというものである。現在、そこには川宇連神社(別名尹良神社)があり、その境内に10数本のハナノキがあり、国の天然記念物の指定を受けている(写真11)。ここで、気がつくのは、花沢の聖徳太子お手植え伝説との類似性である。しかし、この地は、伊南谷のハナノキ自生地と連続しており、自生であることは疑いがない。ちなみに、尹良親王は、宗良親王と当時、遠江国井伊谷を支配していた井伊道政の娘との間の子との伝承もある。つまり、時を超えたハナノキをめぐる尹良親王と井伊家との因縁が見えてくる。しかも、尹良親王のハナノキは、実際に災いをもたらしてきたようだ。民俗学者柳田国男の指導の下、愛知県設楽郡の地域伝承を集めた「設楽」(昭和7年)の中にハナノキにまつわる話が幾つか紹介されている。岡田裕三郎氏による「ほんとうにあった話」である。この記事で、大正期に尹良神社改築の際、邪魔になったハナノキの枝を落とした後、地域の人や工事関係者に次々と不幸が生じ、ハナノキの祟りとうわさされたとの記述。さらに落ちているハナノキの花とか苗木を家に持ち帰り不幸にあったといったもので、当時は、川宇連神社のハナノキ自生地が国の天然記念物の指定を受けた後であり、尊王思想が鼓舞された時期との一致し、こうした忌避伝承が残されたとの説もある(伊藤正英、2008)。
瑞浪市の天猷寺に花ノ木門という山門がある(写真12)。山門は間口4.5m、奥行3.5m、瓦茸2階建の楼門で、天保6年(1835)の作と言われ、その名は用材一切がハナノキによって建てられたことに由来する。用材のハナノキは同市神徳字西山地区の自生地の大木を利用したとされるが、山門の建築には相当量のハナノキ材が必要とされたものと思われ、現在は、この地区にハナノキは見当たらない。天猷寺は、旗本馬場氏の菩提寺で、建立時の当主は、馬場筑前守克昌で、西丸御留守守居番を歴任している。馬場克昌は、本草学にも精通し、草本85種、木本47種などを図解、解説した全5巻からなる「詩経物産図譜」を残している。克昌が何を思って、比較的加工しづらいとされるハナノキの材を使って、山門の建設に当たったかは定かでないが、本草学者としてハナノキに特段の思い入れがあったのかもしれない。
 
写真9:聖徳太子お手植えの伝承がある滋賀県湖東町北花沢のハナノキ
写真10:南花沢の八幡神社境内にあるハナノキ
写真11:尹良親王にまつわるハナノキ伝承の残る川宇連神社の自生地
写真12:総ハナノキ作りの岐阜県瑞浪市天猷寺に花ノ木門
ハナノキの直面する危機
先にも述べたようにハナノキの分布は地域的に限られており、個体数もさほど多いというほどでもない。ハナノキの自生地の多くは、国、県、市町村レベルで天然記念物の指定を受け保護されているが、自生地自体は、分断、孤立し、個体数も100本以下と少なく、その面積も狭い。そこで、問題となっているのが、次世代の確保である。しかし、いずれの自生地でも、林床に更新木、稚幼樹はほとんど見当たらない(写真13)。したがって、このまま推移すると、上木が寿命に達するに及んで、集団が消滅する危険性が生じる。そこで、私たち森林総研の研究グループは、環境省の研究プロジェクトとして、ハナノキ保全のための研究を行ってきた。はじめに取り組んだのは、ハナノキの更新初期過程の解明、すなわち、なぜ、ハナノキの自生地には、更新木が育たないかを明らかにする研究であった。私たちが、まず、取り組んだのは、この更新阻害要因の解明で、(1)種子生産、(2)種子の発芽特性、(3)散布種子の生残、(4)発生実生の生残を調べることにした。
写真13:国指定の瑞浪市釜戸地区のハナノキ自生地。林床に後継樹は一本も見られない
(1)十分な健全種子が形成されているのか?
ハナノキは、雌雄異株であり、個体数が少なくなれば、性比に偏りが生まれ、また、遺伝的な原因から種子形成に障害が生まれることが考えられた。ハナノキの場合、大きな集団であれば、性比はほぼ1:1で問題がない。しかし、個体数の少ない集団では実際に、性比に偏りが見られる。また、個体数の減少は、遺伝的な多様性が低下する恐れがあり、種子形成に悪影響を及ぼすことが考えられた。そこで、集団サイズの異なる幾つかの自生地で、シードトラップ(ネット)を仕掛け、開花と種子生産について、継続調査を行った(写真14)。その結果、ハナノキは、その種子生産において、年次変動が少なく、十分な健全種子の生産されていることが判った。さらに集団が小さくなっても、その影響は、ほとんど見られなかった。したがって、次世代形成に、ハナノキの種子生産は阻害要因とはなっていなかったと言える。もう一つ気がかりだったのが、花粉媒介者の挙動であった。不幸にも共同研究の最中、サハリンで事故に会い亡くなった故井上健信州大学教授は、ハナノキの花粉媒介者を調べ、その多くがハエであることを突き止めた。早春の低温下、強力な花粉媒介者が存在しなければ、十分な受粉効率が妨げられると考えていた私たちは予想を裏切られることとなったのである。
写真14:ハナノキの樹冠下にシードトラップを設置して、種子生産を調べる(居谷里湿原)
(2)種子発芽に問題はないのか?
多くの植物種において、種子はその生育環境に対応し、不利な環境をやり過ごす休眠体制を持つことが知られている。その休眠体制を支えるメカニズムは巧妙で、植物種の生育にとって好適な環境の到来を感知し、休眠を解除する機構を進化させてきた。したがって、種によっては、通常の環境の下で、なかなか発芽してこないものもある。ハナノキの発芽特性については、調べられた例がなかったが、アメリカハナノキについては、種子発芽の2型性が報告されている。つまり、初夏に成熟した種子には、直後に発芽する種子と翌年になってから発芽する種子が混在するということである。これは、いわば発生した実生の生育の可能性を高めるための危険分散と考えることができるし、合わせた種子の発芽率も高い。一方、日本のハナノキの発芽はどうか? 成熟直後の種子は、どのような発芽条件の下でも、発芽はしない。すなわち、休眠状態にある。しかし、数ヶ月の低温湿層処理を行うと休眠が解除され、発芽する。そして、低い温度条件下で、比較的高い発芽率を示した。こうした発芽特性は、成熟散布の初夏に、すでに他の雑草木が成長しているため、ハナノキ実生の定着にとって不利な環境となり、これを休眠状態をもって回避し、翌春、いち早く発芽、生育することによって、より更新を確実にする戦略と考えることができる。
(3)散布種子は生存できたのか?
種子生産にも問題がない。種子発芽にも問題がないとすると、どうしてハナノキには更新稚幼樹が見当たらないのだろうか? その原因として考えられることは、散布された成熟種子が発芽に至る過程で、その発芽力を失ってしまうことである。実際は、ハナノキの種子は、他のカエデ属種とは異なり、初夏での成熟散布であり、発芽は翌春であることから、発芽に至るまでに夏、秋、冬とほぼ10ケ月の間、野晒し状態に置かれることになる。そのため、種子は、菌類、小動物による腐朽・分解、被食被害を受け、発芽力を失う可能性がある。そこで、実際に、こうした生物的な被害による種子の生残を調べてみた。方法としては、メッシュサイズの異なる金網にハナノキの種子を入れ、自生地の地表に設置し、翌春の発芽期直前に回収、健全発芽率を調べることによって、死亡要因を特定した(写真15)。その結果、かなりの高い割合で、種子が生き残っていることが明らかとなり、菌類、土壌小動物による影響が少ないことが分かった。次に考えられることは、小型哺乳類や鳥類による被食である。そこで、木の板にハナノキの種子を接着剤で貼り付け、自生地に置くことで、その消失を調べた(写真16)。この際、被食者を特定しようと、赤外線センサー付の自動カメラで、撮影も行ってみた。その結果、設置した種子はほぼ100%消失し、その消失速度は、開放的な場所で高かった。そして、自動カメラに写ったものは、ハナノキの種子を被食する野ネズミ類の姿であった(写真17)。こんな小さな種子が、これら動物にとって餌になるのだろうかとの疑問を持つかもしれないが、意外に、自然環境の下では、重要な餌資源なのかもしれない。このように見てくると、ハナノキの更新を阻害する大きな要因は、野ネズミ類による被食圧ということになり、その消失率が高いことから、更新は絶望的とさえ見られる。しかし、ここでも、自然界は巧妙な抜け道を用意している。ブナやミズナラなど比較的大型の種子を生産する樹木でも、その更新は野ネズミ類に大きく影響される。そこで、樹木は、野ネズミ類の個体数をコントロールし、更新を図るように進化する。すなわち、種子の豊凶周期を生み出すことによって、凶作年に野ネズミを餓死させ、個体数を激減させることによって、次の豊作年に、種子の被食率を下げる戦略である。しかし、さすがにハナノキは、それほどの力はないので、こうした、樹木の結実周期を利用し、毎年、確実に一定量の種子を生産し続けることで、野ネズミの個体数が低下した際に、更新を達成することができるようにしているのである。実際、数年に一度、実生が大量発生する現象が確認される。

写真15:メッシュサイズの異なる金網にハナノキ種子を入れ、散布後の種子の生残を調べる
写真16:板にハナノキ種子を貼り付け、種子の消失を調べるとともに、被食者を特定するために自動カメラを設置
写真17:自動撮影カメラに写ったノネズミ
(4)実生の運命は、いかに?
野ネズミ類による被食を回避し、多数の実生が発生したにしても、これで、ハナノキが更新できるという訳ではないことは、自生地における稚幼樹がほとんど存在しないことからも分かる。では、どうして、発生した実生が成長できないのか? 実際に自生地の親木の周辺に発生した実生を継続的に追跡調査してゆくと、実生は急速に死亡して行き、その年の秋には、数%しか生き残ることができず、さらに、これらの実生も、数年のうちに全て死亡することが明らかとなった(写真18)。この主たる原因は、まず、春先から初夏にかけて親木の展葉によって林冠が閉鎖し、実生の発生した林床の光環境が急速に悪化し、さらに、他の林床植物の成長によって、実生の成長にとって必要な光エネルギーが十分に得られなくなることが挙げられる。これは林外の解放的な環境においても、同じで、なかなかハナノキの実生が成長できる環境は存在しない。
写真18:ミズゴケの上に発生したハナノキの当年生実生
ハナノキは、どのように生きながらえてきたのか?
では、ハナノキはどのような条件の下で、更新が可能となるのだろうか? ハナノキは耐陰性が低く、親木の下では育てない。一方、開放的な環境にあっても他種との競争に打ち勝つだけの生命力も持たない。だとすれば、ハナノキの更新できうる場所は、親木(雌木)に近く、十分な種子供給が可能な場所で、しかも開放的でかつ他種との競争を回避できる場所ということができる。生理的にも適潤な立地ということになれば、結局のところ、高層湿原や湿地、谷地周辺の解放的な立地しかないと考えられる。ところが、こうした場所も水田開発や植林地化の過程で、次第に狭められ、ますます更新立地が失われてきたのが、歴史的な流れである。したがって、今日、自然度の高いハナノキの自生地を見ることはできない。唯一、その姿を留めているのは、岐阜県東白川村の越原湿原のみと見られる。しかし、この自生地もまた、周辺の植林により乾燥化が進み、ササ類が繁茂して、自然の更新過程を見ることができなくなっている。
ハナノキは、どのように生きながらえてきたのか? 岐阜県中津川市の岩屋堂地区に日本最大のハナノキの自生地がある(写真19)。この自生地は、丘陵地の中間斜面にある湧き水湿地で、農業用のため池が作られ、その周辺に多数のハナノキが分布している。その数は数100個体である。現在は、ため池周辺の湿地を除けば、スギ、ヒノキの植林地となっており、その中にハナノキが介在する。地元の人によれば、かつては湿地周辺にスギ・ヒノキの天然林が存在したが、明治以降は農業資材、薪、緑肥の採取を目的とした柴山として管理され、戦後に針葉樹の植栽が行われたという。柴山としての管理を行っていた時代に、ハナノキは目立たなかったというが、比較的大径のハナノキが見られるので、種子の供給は確保されていたものと思われる。そうした中で、短い期間で、伐採が繰り返され、開放的な環境が生み出され、しかも、湿地で他の植物種群が容易に優占できない中、ハナノキが更新、成長し、今日の集団を形成してきたものと考えられた。同じことは他の自生地についても共通するようで、湿地や谷底氾濫原で、薪炭利用が繰り返し行われてきた場所に成立する二次林の中にハナノキを見ることができる(写真20)。つまり、ハナノキは、人為的な撹乱に適応する形で、その集団を維持してきたことが推察される。しかし、今日、こうした薪炭林管理は失われ、また、人工林についても、林分が成長するに及んで、先駆性のハナノキはその生存が脅かされ、また、次世代を形成する更新の機会が奪われているのが実用である。
写真19:国内最大のハナノキ自生地である中津川市岩屋堂地区
写真20:シバや薪炭利用など人為活動の中で生き残ってきたハナノキ(岩屋堂地区)
ハナノキの保全のための試験的取り組み
最初にハナノキの自生が確認され、中津川坂本の自生地をはじめ、瑞浪市釜戸地区、恵那市亀が沢地区など国の天然記念物の指定を受けた自生地は、面積も狭い上に、ハナノキのみを保護の対象にしてきたため、周辺の土地開発にともなって分断、孤立し、更新も期待できないことから、集団の存続が危ぶまれている。そのような危機感から、私たちハナノキの研究チームは、これまでの研究成果を元に、ハナノキの後継樹を育成する試験的な取り組みを行っている。試験を行っている場所は、長野県阿智村の備中原地区、そして大町市の居谷里湿原の2ケ所である。
居谷里湿原のハナノキは個体数が極めて少ない上に、雌木が少なく、更新木も見られない。しかし、大町市教育委員会は、湿原の乾燥化を防ぐ目的で、湿原に侵入し成長し続けるハンノキなどの木本やヨシの刈り払いを実施して来たところ、ハナノキ林分の林縁部で多数のハナノキの実生が発生・定着した。そこで、更新サイトでの適切な植生管理を行うことで、ハナノキの更新木の成長を促すこととした。その結果、更新したハナノキ稚幼樹が確実に成長し続けるに至っている(写真21,
22)。

一方、備中原では、小沢沿いのスギ・ヒノキの植栽木を伐採し、林冠ギャップを形成することで、ハナノキの更新を促すこととした。このギャップの形成によって光環境が好転し、その場に生育していたオオミズゴケが繁茂・拡大し、そのミズゴケを更新サイトとして、多数のハナノキの実生が発生した。ギャップ形成後、5年を経過した現在、更新したハナノキは、大きなもので1m以上にも成長し、次世代の形成が確実視されている(写真23,
24)。
以上のような試験的な試みによって、現在、保護下にあるハナノキ集団を維持しつつ、集団の拡大を図るためには、孤立した狭い範囲の自生地を手付かずの状態で維持するだけでは不十分で、湿地を中心に隣接地に伐採などにより開放的な環境を形成し、実生発生後に、競争者となる雑灌木を排除する刈り払いなどの更新補助作業の実施が必要と考えられた。

写真21:湿原保護のためのヨシやハンノキなどの伐採、刈り払いがハナノキの更新に貢献(大町居谷里湿原)
写真22:植生刈り払い後に更新したハナノキの稚幼樹
写真23:ハナノキ更新のため、林内の光環境を改善するため植栽木を伐採し、林冠ギャップを形成する(長野県阿智村備中原地区)
写真24:ギャップ形成後に更新・成長したハナノキ(備中原)
ま と め
ハナノキは、第三紀に北半球に広く分布したハナノキ節の遺存種で、現在、その分布は限られ、その集団サイズも小さく、自生地となる湿地、谷地の土地開発もあいまって、その存在が脅かされ、絶滅の危機に直面している。しかし、この種の保全を図るためには、単に現存するハナノキ集団あるいはその自生地を保全するだけでは、それを達成することは難しい。事実、いくつかの国の天然記念物指定の集団であっても、個体数が減少し、その存続が危ぶまれている。ハナノキの集団を維持するためには、現在の自生地周辺に、新たな更新サイトを形成し、更新補助作業を施すことによって、集団の拡大を図って行かねばならない。そして、その不可欠な条件として、自生地周辺の住民の理解と協力が是非とも必要である。
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